【2096】獣少女は振り向かない

少女二人

 二〇七四年 異能者による新人類宣言。
 地球の支配者を自負していた人類は、旧人類という烙印を押されて激昂し、次第に狂気に囚われていった。

    ◇ ◇ ◇

 二〇九六年 秋 港区品川

 ──孤独となった蟻は、私のように虚ろになるだろうか?

 生気の無い眼で、己のことを虚ろと喩える少女は、超高層ビル群が倒壊した瓦礫の下に偶然できた空間の奥で、両膝を抱えてうずくまっている。
 冷たい雨がそぼ降る昼下がり。空は厚い灰色の雲に覆われているが、瓦礫の隙間から差し込む光は、淡く少女を包み込んでいる。遠目には神々しくも見えるが、少女の表情に気づけば正反対の印象になるだろう。

 ──追いやられた? 違う、私は逃げだした。そして、仲間は死んだ。

 少女の眼は焦点が合っていない。シクシクと泣きながらクスクスと笑っている。小刻みに噛み続けている左手の親指の爪がボロボロだ。
 着衣は礼装軍服スタイル。元は全身が純白でコーディネートされた絢爛な出で立ちであっただろうが、今は見る影も無い。おびただしい古い血痕と新しい血痕によって斑に染められ、それは少女の辿ってきた修羅を物語っている。

 ──信彦、万里奈、康子、ごめんなさい。

 少女は一流の戦士であり、その血痕のほとんどは返り血だ。傍らの瓦礫の上に、無造作に置かれたレイピア風の細身の刀剣には鮮血が付着している。
 ほんの一時間前、小瓶のミルクと数枚のビスケットを得るために、修練で培った技巧を用いて、四人の追っ手の足首を刺し貫いた。無我夢中で、この隠れ家に逃げ帰り、七日ぶりに人間らしい食事を貪った。
「情けない」少女は、唇を微かに震わし、音にならない叫び声をあげた。
 飢えを凌ぐため野盗に落ちぶれたことが情けないのではない。仲間を裏切り、絆を捨て、のうのうと一人だけ生き延びている己が情けないのである。

 ──どうして、こんなことになったのか?

 仲間の静止を振り切って一人孤独を選んだ時の記憶は曖昧になっている。懐かしい想い出だけが、心の奥底から滾々と溢れてくる。

 そうして、奴はやってくるのだ。

 ──殺せ。

「やめろ!」

 ──殺せ、殺せ!

「私は、殺さない!」

 もう一人の己。憎悪に満ちた己の誘いの声に、赤子が嫌々をするように泣きじゃくりながら否定する少女は狂気に満ちていく。

 軍服の襟を、すがるように震える指先で確認する。そこに装着されているのは薄汚れた銀製のバッヂ──翼の隊章が刻まれたバッジだ。それは戦士である少女にとっての誇りだった。だが、急激に変化していく心の支えにはなれなかった。

 やがて、少女は、ゆらりと立ち上がった。雷鳴とともに雨が激しく降り注ぐ。瓦礫に叩きつけられ砕けた雨粒が空間を充たす。

「いや、殺せばいい……」

 幾多の命を切り刻んできた刀剣を拾い上げた、その顔は喜悦に歪んでいる。

「獣型など皆殺しだ!!」

 かっと眼を見開いた少女は、隙間から稲光がのぞく瓦礫の天井に跳躍した。

 闇から這い出て、荒野に独り、天を仰ぐ。責めるように雨は激しくなった。服を染めていた新しい血痕が洗い流されていく。

 やがて、少女は雨に溶け込むように消えてしまった。

   ◇ ◇ ◇

「美しい!!」

 ガトリング砲を空高くに放り投げ、まるで芸術品を大袈裟に称賛するような動作をエレガントにこなした高機動バイペダル(Humanoid Bipedal Weapon)は、西米軍が投入した新機体オリオンだ。旧機体と比べて一回り大きい五・五メートルあるが、各種動作のポテンシャルは向上している。

 落下してきたガトリング砲を軽々と無造作に片手でキャッチし、そのオリオンは通常姿勢に戻った。通常といっても搭乗者の性格とセンスを反映し、いかれたナルシストの気取ったポーズのようだ。

 まるで人間のような微細な挙動を実現しているのは、搭乗者の脳とバイペダルが直接にリンクしているからだ。もちろん単純につなげ自由に動かせるというわけではなく、西米のテクノロジーを結集した次世代の新兵器だった。

「はじめて北条早百合を肉眼で確認したが、あれは既に最高の獲物に仕上がっているじゃないか!? なあ、ニーナ君!!」

 興奮さめやらないニコラス・ウォーロック大佐は、自分が舌なめずりしているのに気づいていない。獲物に執着するときの彼の癖であったが、バイペダルで顔を隠すようになってからは、周囲の視線を気にすることもなくなった。総員五千人の旅団を率いる指揮官という立場より、一人のハンターとして生き甲斐を見出している根っからの戦士タイプの人間だ。

「いつまで監視を続けるのですか? あの個体が特別であることは理解していますが、継続捕捉が困難な状態が続いています。ロストするたびに多くの人員を充てて再捕捉し、何とか半日以上のロストが無いようにはしていますが非効率です」

 オリオンの動きは中に入っている人間の本性まで分かってしまう微細なものだ。大佐機に向かって、本当に困った風に陳情しているのは、大佐の副官ニーナ・フェニックス中尉機。会話コミュニケーションは通信で行われているが、オリオンのボディランゲージは生身の人間同士のやりとりのようだ。

「どうして、困難なのかね?」
「根本的な技術問題はステルス能力ですが、敏捷性と持久力が非常に高いこと、なにより逃走術に長けているのが最大の理由だと考えます」
「ほほぉ! 異能力にしろ単に賢いにしろ、それは腕が鳴るねえ。彼女を狩るのが楽しみになってきたよ!」
「ウォーロック大佐っ! 真面目に聞いてくださいっ!」

 通常、非戦闘行動ではダイレクト操縦機能はOFFにするものだが、大佐機と中尉機はONのままだ。だから二人のやり取りは未来兵器が演じるコミックショーのようになってしまう。二人に従う七機のオリオンの中では、部下たちが腹を抱えて笑っている。

「ニーナ君、そうあせるな。幕は開いたばかりだよ」
「しかし……」
「残念なことに日本政府から、我が軍を含めた各勢力に捜索協力依頼があった時点で、あれは獲物ではなく監視対象になってしまった。自重する理由は、この状況で捕獲を強行すれば他勢力が全て敵になってしまうからだ。だが、いずれ北条早百合は保護される時がくる。そのタイミングが狩猟解禁だ。そして、あれは我が軍が捕獲する。だから、それまでは徹底的に監視を継続するんだ。いいね?」

 課せられた捕獲目標は他にある。本国からは量を期待されているのだ。だが、ウォーロックはあの個体を最優先としてしまった。そこに副官としてのニーナの不満がある。しかし、軍の上層部に報告するつもりもない。

「……保護するのは、日本政府でしょうか?」
「いまの日本は混沌としている。異能勢力も一枚岩ではない。このゲームの勝者が決まるまで、我々狩人は息をひそめて待つのが重要だ」

 ──ゲームか。結局、異能者はモルモットだ。北条早百合も、私も。

 ニーナは、自分が実験体であることを思い出した。
 胎児の頃から注入された異能の芽が目覚めようと蠢くのを、歯を食いしばって抑え込んだ。

「よし、それでいい。力を解放するのは今じゃない」
「はい。申し訳ありません」
「量より質。『特殊な異能を研究する必要性』を主張しているのはライアン・フェニックス博士だが、君の父親だったね?」
 ニーナはうつむき、無言で肯定した。──私が成長すれば、パパも表舞台に戻れるだろう。
「北条早百合は特殊だ。必ず君の成長にも役に立つだろう。博士も喜ぶぞ」

 ──パパの一番になるのは私だ。