2024年8月14日:最近は単なる設定よりも成果物としてのショートショートを意識してたりする。ちびちびと星新一作品も読み返してるよ。千夜一夜よろしく・・繰り返しにはなるが、とにかく物語を書く勉強をしないとな。ということでショートショートのテーマとして模索しながら【ハイクロ】の宇宙人設定を考えてみてるのだが、そろそろロズウェル事件やグレイについて再検討する気運が盛り上がってきた。現状でも面白い素案はあるのだが、少なくとも他設定の都合やメインストーリーの大きな流れに合流するために細かいことを詰めていかねばならん。楽しくはあるが調べ物が多くなりそな重い作業ではある。
とりあえず、ざっくり時系列を確認すると、、
・1947年7月8日 :ロズウェル事件
・1961年9月19日 :ヒル夫妻誘拐事件
・↓の少し前 :テレビドラマ『アウターリミッツ』にグレイそっくりな宇宙人が登場
・誘拐事件の後 :ヒル夫妻がグレイについて証言
・1970年代後半 :UFO研究家たちによってロズウェル事件の再検証。宇宙人の存在は言及されず
・1980年代 :墜落した円盤やグレイの死体を見たという証言が続出
・1994年 :アメリカ空軍がロズウェル事件で墜落したUFOは調査用危急だったと発表
とまあこんな感じ(wiki調べなのでグレイに書き換えされてないことを祈るw)。あからさまに怪しいわけだが、米国政府が段階的に情報隠蔽、誘導してたとしたら有り得るのかな。
今やロズウェル事件なんて知らない若い世代も多くなってそうだし真面目に取り扱うこと自体が流行遅れなのだろうが、グレイと共に育ってきた世代として【ハイクロ】では避けては通れないネタなんで、詳細に時系列を整理せんとな。基本的にはグレイ自体は地球人側の捏造という線が手筋としてはよさそうではあるし、ありがちではあるが地球には既に宇宙人は潜んでいるという考えは全体設定を構築する上では都合よくもある。色物と言われるとそれまでだけど、宇宙人は色々いたほうが楽しいよなwつーか宇宙人は隣人レベルで絶対いるって思ってるのだが↓の動画はナルホドなって思ったよ。要約すると、現状で知り得た科学的事実とか観測範囲においての知的生命発生確率では地球人以外の知的宇宙人は存在しないという動画なんだけどさ。・・でも、絶対いるんだよ!つうか近場にいるよ!wwもっと時間の可能性を評価しようぜ!地球人より先に知的生命体になった宇宙人による宇宙に及ぼす可能性って物理学では計算できないよね。突っ込みどころは提示されてるんだから茂木さんも反論すればいいのに何でか大人しかったなあ。でも他の動画で言及してたけどw
茂木さんの動画は最近になって見るようになった。彼へのネガティブ評価が先入観に繋がって敬遠してたんだけど未知への興味に対する発露が非常に子供っぽく、自分にも似てるところがあるんで共感してしまったよ。そのうち彼の本丸であろう脳科学の動画についても詳しく見てみよう。クオリアwikiの話とか面白そうだし。
話を戻すと、グレイかそれに代わる宇宙人の存在が地球に到来していたとして、彼らの立場から考えることが重要だと思う。どうしても地球人から見たアイデアに陥りやすいんだよね。それに地球の映像エンタメって未知との遭遇に対して遅れた技術の軍隊が迎撃することを脊髄反射的に採用しがちなんだよね。これは興行的にドンパチが都合がいいって側面もあるだろうけど、やはり何かがあるって妄想してしまう。それを短絡的な陰謀としては思わないけど、真相がどこにあるのかの妄想は多角的に展開できるだろう。宇宙人=敵という構図は基本的に排することがオリジナリティに近道そうではあるが可能性は考慮していきたい。このへん地球が中心にあるアイデアというのはバリエーションとして限界があるし無理があるということを考えてみたこともない人がたくさんいると思うが、個人的謙虚ではなく種族的謙虚という観点で【ハイクロ】におけるロズウェル事件とグレイの定義をセンスよくできたらカッコいいよなあ。最初は歴史も扱う作品として小気味よいネタぐらいに仕上げられればと思っていたが、アメリカ社会のことも厚くしていく宿題を抱えてもいることもあり、ちょっと力を入れて取り組んでみようと思っている。サブストーリーからメインストーリーに昇格できるキャラや事柄が出てくると宇宙人設定がより立体的になるし。頑張ろう。
2024.8.12:昼過ぎに目が覚めた。休みが続くと早朝までだらだらしているので一日の始まりは遅くなる。健康のためには規則正しいほうがいいし、仕事が始まったらリズムを取り戻すために負荷がかかるので、早めにサイクルを元に戻しておくべきだろうな。でも、それが難しい。まあいいや。さて、今日は【ハイクロ】に役立つアイデアを入手するため、麻婆豆腐について調べることにした。トイレに『食戟のソーマ』を持ち込み読んでいての閃きではあるのだが、食に対する執着が強い宇宙人というアイデアはSFアプローチとして悪くはないと思う。何でも食べる的な極端な漫画設定みたいなものは色々ありそうだが、宇宙人が地球人の食を真面目に語るのは面白そうだ。もちろん地球人が宇宙人の食に関して語るのも同様だ。アシモフの短編集『夜来たる』に収録されてる『ホステス』という短編を最近読んでたので記憶の片隅に残ってたのかもしれない。
さて、麻婆豆腐である。薙切えりな氏によれば麻婆豆腐は辛さと痺れが特徴の料理。この「麻」と「辣」の感覚が、食に貪欲な宇宙人にどう影響を与えるのかを考えてみる。彼らホイドコ人(方言の“ほいどっこ”からの想起w)は食をただの栄養摂取の手段とするだけでなく、あらゆる感覚を極限まで楽しむことに執着している種族。彼らにとって、食べるという行為は生存のためだけでなく、文化や社会を形作る重要な要素でもある。人間型の宇宙人でないと面白い感じにできそうにないので無理して非人間型にするのはやめておこう。そうなると地球に近い恒星系としてルーツは同じとするのが無難ではあるが単純すぎかなあ・・人間型のメリットを考察するのは【ハイクロ】では結構重要だったりするので、そっち系で進めることにする。食が理由で人間型デザイン種族が大宇宙の方々で発現するというのも面白いかもしれない。
ホイドコ人は味覚や触感に対して驚異的な感受性を持っており、料理そのものが彼らの文明の中核をなすものと定義する。彼らの社会では食材が最高の状態で提供されることが最も重要であるとか、料理人は最も尊敬される職業の一つとされてるとか。あらゆる感覚を楽しむために辛さや酸味、甘味、苦味といった基本的な味覚を超えた、異次元の味わいを求め続けているとか・・・・そんな妄想しているうちに、麻婆豆腐が食べたくなってきたので近所の「王将」に出かけることにした。炎天下、ノロノロと歩きながら別の宇宙人のアイデアが思いつく(なんでか移動中って閃くんだよね。リスクと隣り合わせだからかな)。そのうち、この地球に潜入している宇宙人についてもショートショートで披露できたらと思う。
王将に着いて迷わず麻婆豆腐を注文。他にニンニクマシマシ餃子とカニ玉(京風だれ)。料理が運ばれてくるのを待ちながら、もしホイドコ人が王将に来たら、どんな反応を示すか考えてみる(このへんのノリはメトロン星人想起ではあるが【ハイクロ】では既に根幹設定としてガッツリ取り入れている)。彼らは地球の料理に受け入れて新たな味覚の探求を始めるかもしれない。さらに、麻婆豆腐の「麻」と「辣」の刺激を気に入り、地球に滞在して料理を学び尽くすかもしれないと考えると楽しくなる。地球の料理に否定的だとちょっと悲しい。少なくとも共通の妥協点があると面白いのだが。ホイドコ人の食が地球人の食と似ているのか似ていないのか、それはホイドコ人がどんなタイプの種族なのかの考察に具体的に貢献してくれそうだ。この手法で食に限らず宇宙人のディテールを詰めていければと思う。それはまた地球人の勉強もできて一石二鳥となるだろう。宇宙人と地球人が一緒に食事を楽しめる日が来るとイイネ。
2024.7.14:違う視点から一つの出来事を展開してみて、それらで互いに割り算をする感覚が気持ち悪かったりする。何が自分なりの答えが何であるべきかを迷ってしまうのだ。最近は「割り切れないこと」が正しいと定義してみているのだが、そんなことをする第一の理由は、気持ち悪さを逆手にとって読者の満足に繋げるなら納得がいくと思ったからだ。それなら目標に掲げても迷いは吹っ切れるだろう。
違う視点とは登場人物の視点と思い込んでいたが、いろいろな世界線からの違う視点も必要なようだ。予定通り世界線は一つだけしか書くつもりはないが、その一つを書くために他の世界線を考察するだけではなく実際に物語として書いてみている。もちろん書く量は抑制し、即興でスラスラと書けるような内容に限定している。具体的にはストーリー上では同じ時期に生きていない登場人物たちに会話させる手法だ。下手すりゃファンタジーぽくなりがちだが、個々の世界線はそれぞれ現実だと考えて年表の修正を検討しながら取り組んでみてる。これが上手くいくなら年代記、群像劇としてのメリットを見いだせるかもしれない。まあ、夢は単なるノイズではないという基本設定があるので一部は成果物として使えるようになるかもしれないし。
さて、1900~2050年代に登場するAIキャラについて再検討を始めている。2017年オーバーテクノロジー公開前後の出来事を補強していたところ多々矛盾が発生しているのに気付いたからだ。そもそも、とんでも設定であり問題は噴出することは分かりきっていたことだったが、ここにきての大噴火である。秘匿されていた超技術が表に公開されるというものなので、「世界には表の流れと裏の流れがある」という基本設定内の工夫では全て吸収できない。根っこ部分からの再構築が必要な事柄だ。簡単な解決方法の一つとして地球外知的生命体との関係性を取り入れるという手段があるのだが、地球人への不干渉設定においては乱発するのはセンスを問われることになる。メタい作戦としては戦略成果を無視して戦術成果だけを求める割り切りも考えたが、同様なケースが盛りだくさんになってモヤモヤしそうなんで止めにしとく。ゲーム作りでもそうだけど修正する可能性があるものを放置して別なとこの作業をするってのは全体的には効率的である。同じとこばっか修正しがちだけど改めないとな。そもそも頭が古いのでしょーがないってこともあるけれど、カイゼンしようとする気持ちを継続することが大事なのだ。
オーバーテクノロジーの内容については科学知識に立脚するのは当たり前だが、よりエンタメとしての取り入れ方にセンスを問われると思うので、これもなかなかの難題なのであるが、それよりも、その大イベントに遭遇した地球人類の反応を想像するのが面白い。文明がいきなりステップアップしたら、それぞれの人生って悲劇が多くなりそうではあるのだが、希望的エンタメとしての総合的な展開は、雑草の如くに地球人類は踏み越えていく流れしかないのだ。これって王道ではあるが、ひねくれてる自分が書くからには外道な感じになるのは仕方がない。
2024.7.7:七夕である。ハイクロが宇宙と地球のネタであるなら触れずにはおられない。人類進化の階段を昇りゆく恋人たちを〈織姫と彦星〉と比較するのは捻りが無い感じではあるけれど、書き手としての照れをコントロールすることは多様な物語を綴る上では必須事項ではある。遥か未来の話であれば、世界設定としても科学的にも、人間が人間の姿のまま進化するのは確率的に有り得ないと考えているが、激動の時代に生きる人々の心の変遷はいかなるものだろうか。マジで想像に絶するよ。
我が生涯においてはベルリンの壁解体、ソビエト崩壊、9.11テロ事件、そして数々の戦争など、政治的ビッグイベントは遠隔地ながらも情報体験してきたが、人体進化に関するような科学的ビッグイベントを生きているうちに体験できるだろうか。ネットで世を見渡す範疇では地球人類は精神的に詰んでいる。進化を追究する術はあるのか真剣に悩んでいるが、日々の生活に引き戻されて他愛もない議論に身を委ねていると、知的生命体たる自負など吹っ飛んでしまう。具体的に変化させていく実践力が狂おしく欲しいものだが、ままならない。正解に辿り着けたなら監視者が合格点をつけてくれて、何かが変化することを祈るばかりである。
人間として最後になる七夕を楽しめるだろうか。それが心配だった。だけど杞憂だったみたい。お祖母ちゃんが仕立ててくれた浴衣を着て、あなたの横を歩いていると、獣に変化していく苦悶も薄れていくよう。気象変動で猛暑が続いてるけど、今夜は何だか涼しく感じるな。
笹の葉さらさら 軒端に揺れる
お星様きらきら 金銀砂子
五色の短冊 私が書いた
お星様きらきら 空から見てる
古今東西、人と獣の恋愛物語は数多く存在する。無慈悲な悲劇でさえも甘ったるいロマンチックに感じてしまっていた頃が懐かしい。しかし、それが現実に、我が身のこととなると、私は狼狽し、隔絶された私だけの部屋で狂人となる。リンク能力が通用しない堅固で高い壁を築く。そうして、あなたが人側であることを呪ってしまうのだ。人類進化の過渡期に生まれてきた運命を呪ってしまうのだ。
「晴れて良かったね」
「ああ・・星が綺麗だな」
「来年も逢ってくれる?」
「おまえは織姫じゃねーだろ。いつでも一緒だ」
2024.5.27:人類の存在価値としての創作活動って何だろうとSF-MIND的に考察すると・・結果が出る前提にはなるが、その過程は非効率的に見えても実は効率的なものだと思う。効率化の理想を掲げて非効率なプロジェクトになりがちな現代社会は非常に悲しい。これからのプロジェクトは進化を強く意識すべきだろう。人間が生物的に進化する形でである。そうすることで日々繰り返される〈井の中の蛙〉発想から解脱できるかもしれない。未来社会へ向けて一歩踏み出す感覚だ。本当は未来社会プロジェクトに参加できれば良いのだろうが、身近なところから一人で始めてみよう。
リモート社会の到来はSOHOスタイルを志していた身としては大歓迎なのであるが、チームメンバーとの膝を突き合わせての活動を望む気持ちも理解できる。だが、ネットという文明の利器を保持する限りは元に戻ることは無いだろう。ならば新しい理想を追い求めるまで。バーチャルオフィスは手段として正しい方向だろう。だが足りない。想像力が追い付かない人もいる。だからといって情報補完してくれるインプラントが答えにはならないとも思う。万人に通用する〈錯覚〉を恒常化できないだろうか。もちろんログイン/オフは無しである。薬とか催眠術を使うわけでもない。人間は自己陶酔できるスキルがある。それで〈場〉を形成すれば良い。宗教にのめり込む形に似ているかもしれない。要するにシステム的にハッピーに感じる方法があれば、膝を突き合わせる必要は無いと考える。膝を突き合わせるということは逃げられないということである。それは、いまどき受け入れられないだろう。逃げたいなら〈逃げ場〉を自ら作ればいいのだ。〈会う〉ことのネガティブ面から得たい効能は別途検討は必要だが、〈会わない〉ことの可能性を優先して追い求めるべきだろう。でなければ我慢して現状維持に身を委ねるか、昔の形に戻すべく血反吐を吐けばいい。だが相手がそれに付き合ってくれる保証は何も無い。戻れたとしても茨の道が待っている。過去の良き熱情の場はノスタルジーのままにしておくほうが賢く自然だ。
『ハイクロ』では社会の地味な変革についても書いてみたいと思っている。その中でもクリエイティブ関連は外せない。それが昨今の世情に対しての自己主張ともなるだろうし。ネタとして非常に美味しいし。みんな興味があるだろうし・・未来の創造を妄想するのは分かりやすい切り口だと思うんだ。