魂の在りかが根本にあるSF創作を志すようになったからか、これまで生きてきた中で、面白いと思ったこと、美しいと感じたこと、興味をそそられたこと、それらは宇宙視点的で何か意味が有ったのだろうか?と、ぼんやり考えることがある。全ての物事には意味があるという一種の思想的な見地でのことなので、意味など無いし、そんなこと考えることすら意味不明と言われるかもしれないが、なんだか考えるをほどに焦燥感が積み上がっていくのである。このことで、もしかしたら影響力にこだわる人の気持ちが何となく理解できたかもしれないとも感じている。そんな風なことを妄想するようになった今でも自分の死後はぶっちゃけどうでもいいという気持ちは変わってないし、世の中に爪痕を残したいというような野望にも共感できないのだが、自分がポジティブに感じたことが「意味が無い」というのなら、SF創作で設定しようとしている宇宙システムが非効率に思えて凄く嫌なのである。ネガティブに感じたことも同様なのではあるのだが、それらは仕方ないと諦めることはできる。忘れてしまっても良いと思える類はどうでもいい。その割り切りこそが宇宙システム的には非効率と言えるのに矛盾してるよなあ。結局は自分のことしか考えてないのかも。
この時々わきおこるモヤモヤの解決方法としては「全てのことには意味は有る」ことにしちゃって、創作活動の成果に転化するのが賢い方法と思っている。我が人生の根本としては何も解決はしていないのだが『他者に伝えるべき一つの成果』に仕立てることができるのならば最低限の納得ができるというもの。悟りレベルの答えをくよくよ考えてても、しょーがないしね。でも、そんなときに人生に寄り添ってくれるパートナーAIがいると有難いだろうなあと妄想する局面も多くなってきた。アニメ『エルゴ・プラクシー』の主人公リル・メイヤーに付き従うイギーをイメージしてたりするのだが、そこにボディが有る必要はない。重要なのはイギーが単なる個人パートナーでは無くて世界中枢とリンクしていることだ。エルゴ・プラクシーにおいての世界は宇宙という意味ではなく、現実的狭範囲である地球人類の社会レベルの話なのではあるが、良くも悪くもパートナーに監視され自由が束縛されている面があったとしても、自分が世界中枢とリンクしている安心感は意味のある人生を送るためには有益だと思うのだ。
なんでもかんでも監視されていることをディストピアにつなげてしまうのは違うと思う。例えば神の如き存在に見守ってもらえているなら、安堵して人生を送れるのではないか。でも見守られているだけと知っている我々ならば神に何時でも助けてもらえると依存しないだろう。そういう意味ではAIは神の如き管理者になれるのではないか?AIの暴走を気にかけるのも分からないのでもないが、人間に管理を委ねている現状がベストだって誰も思ってないわけよね。管理者って言い方が悪いのなら、パートナーとしての形を色々試してみるのが良いと思う。地球人類レベルの事業として、人間一人一人それぞれの監視者としてパートナーAIに向き合えるようになると面白いと思うのだがなあ。
『ハイブマインド・クロニクル』で様々な規模のコミュニティ統括AIを登場させる。それらAI同士がリンクすれば地球全体を統括できると考えているが、現実はそう簡単にはいかないのだろう。なにしろ人間様がいるからね。創作ではAIに協力する高い志をもった人間キャラクターを幾らでも生み出して物語的に好ましい未来を構築することができるのだが、現実は厳しい。ほんとの意味での偶然による変革が起きないと人間の選択によって未来は停滞し続けるのだろう。自分のできることは、血を血で洗うような、リアリティある変革を描くことだけだ。人間とAIの関係を突き詰めていきたいものである。